私は縁あって、18歳の時から約10年間を北九州市と福岡市で過ごした。30歳を目前にして、それまでの仕事を辞し、ふるさと信州へ帰ることを決めた。そんな準備を進めていたある日、ある人が私を訪ねてくださった。「信州の安曇野出身の人がこちらで働いていると聞いて、そのふるさとに帰るというんであなたに会いに来たんだ。安曇野といえば、ここ志賀島にいた安曇族が移り住んだところだからね。」とおっしゃった。
志賀島といえば、私の職場があった博多港の目と鼻の先にある。学生時代の友人と連れ立って海水浴に出かけたり、職場の仲間で連絡船に乗ってサザエの壷焼きを食べに行ったり、と楽しい思い出があった。仕事の帰りに志賀島の方面に沈む夕日が美しく、いつまでも見惚れていたこともあった。
私は、それまで安曇族のことなど全く知らなかった。親からも地元の学校でも聞いたことがなかった。もっとも、もともとぼんやりしていた私が聞き逃していたのかもしれない。ふるさとに帰った私は、家業を共に始めたばかりの父の死に直面して、目の前の仕事に追われるばかりで、安曇族のことも頭の片隅に押しやられほとんど忘れかけた。
そんな中でも、ふっと安曇族のことが蘇るのは、毎年9月に行われる八幡神社の祭典の時だ。本祭りでは、8台の舞台が町内を引廻される。翌日は、町の上、下で2台の舟が曳かれる。この舞台や舟に乗れることが子どもの頃の楽しい思い出だった。しかし、この山間部であるこの地で何故お祭りに「舟」が曳かれるのだろう? 隣の穂高神社には有名なお舟祭りがあり、その影響だろうか? その穂高神社には安曇族が関係しているらしい・・・。 私はそれ以上詮索することもなかった。
安曇族に興味を持ち出したのは、偶然手にした亀山勝著『安曇族』(郁朋社)を読んでからだ。本書によれば、古代日本において海洋民族である安曇族は、漁撈を生業とするばかりでなく、高度な航海術を持って、もともと深い繋がりがある中国本土や朝鮮半島との交易にも携わり、日本各地にもその足跡を残している。日本の弥生文化の基となる水田稲作の技術は、中国大陸から伝えられたとされるが、その農業技術の伝播にも安曇族の貢献があるというのだ。
安曇族が活動の拠点とした志賀島は、中国の後漢の光武帝から賜ったとされる金印が発見された場所として有名である。その金印には、「漢委奴國王(かんのわ〔倭〕のなの国王)」と刻まれている。中国の歴史書『後漢書』や『魏史』の倭人伝によればこの志賀島周辺の北九州には、弥生時代に栄えた奴国があったとされている。
『池田町史 歴史編Ⅰ(原始~近世)』には、「ここ(志賀島)で発祥した安曇氏は奴国(なのくに)を建て、全国各地にその海運力を利用して広がり、安曇氏に関連する郡・郷などの地名や神社などを残している。」との記述があり興味深い。